加地ちゃん先生の blog

加地ちゃん先生の、日々の活動について語りつくしていきます。

「アコースティックな空間にて」

おはようございます。月曜日の朝です。

この書き出しは久しぶりな気がするなぁ。長いトンネルの中にいたような、不思議な感覚。気になる事があると完全に探求してしまわないと気が済まない人なのです。

昨日一区切りついたので、やっと模型の仕事を再開できました。

静かな店内にゆったりとしたジャズが流れている。音質はかなりいい気がするので、たぶんBOSEあたりのスピーカーがどこかに据え付けてあるのだろうか。

普段使いのハンドリング確認や、単に「気に入っているから」という理由で、自作のオリジナルカホンを大石吉山の布バッグにいれて、とある田舎の静かなカフェにもぐりこんだ。心が疲れた時にゆっくりするのに最適で、最近お気に入りのお店だった。

ひとしきり食事をすませる。閉店前だったから店内は気づけば自分一人になっていた。これなら迷惑にはならないだろうとBOSEからながれるジャズに合わせ、二、三度、カホンを膝の上で叩いてみる。店内は天井も高く全面木質の室内なので空間が広く音が思わずよく響いた。楽器も木製なら店内も木製だ。アコースティックな環境に、僕は居るのだ。

「いい音ですね」店員の女の子に声をかけられる。お世辞かもと思ったけれど、気さくな表情からはそんな感じには受け取れなかったので、一応お墨付きをもらったことになる。嬉しくなって、もう一章節ほどたたいてみる。

「まあ!いいですね! うちのお店用にも作ってもらえませんか」

いきなりの製作オーダーをいただいた。この音が出せるまで様々な材質やサイズで試作を繰り返し、やっと詰めてこられたお気に入りの感触だったので嬉しいことだ。聞けば昨夜の店内イベントで、フルサイズのカホンを交えたライブ演奏があったのだそうだ。

「あ、あの座ってやるやつのですよね」

そんな会話が続く。

「最終的には、森に掛けると鳥の巣箱にもなるんですよ」という僕の締めくくりに大いに受けてもらえた。生まれてから最後の日が訪れるまで、森に生まれて森に還るネイチャーなカホン

カジカホンを今後ともよろしくお願いします。

静かな気持ちで、カホンの表面にチョークアートを描写してみるのは楽しい体験になります。ぜひぜひ。

Nikon D700

Ai-Af 60mm/f2.8 Macro

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「小さな宇宙と、大きな未来と」

マクロレンズを常用している。

カフェでテーブルフォトを撮るのにも有効な上、ポートレートレンズとしてもとても秀逸だからだ。距離によっては単焦点レンズとはいえレンズの繰り出し量が少しきになることもあるのだけれど、標準レンズとマクロレンズを一つにまとめられれば荷物は相当軽くなる。

マクロレンズを使うと、小人になった気分になる。肉眼では確認できなかった世界がファインダーの中に広がっていく。まるで宇宙のようだ。三メートル範囲内で百枚以上は撮れそうな勢い。世界をマクロな視点で分析していくと、ナイスショットが無限に見つかることに気づく。この感覚は、他のレンズを使った時にも役立つエッセンスになる。普段見逃しがちな、この世界の片隅に。愛を見つけて。f:id:LAPIN1791:20190923070722j:plain

「夢を、わすれないで」

全く子供染みた行為だと思ったのだけれど、たぶん近日中に発売となるX-Pro3を今すぐ買わないで耐える(笑)必要があると思い、CMが流れ始めてから毎日のように頭に浮かぶあのゲームをプレイするため、遂に任天堂Switch liteを決済した。大げさであるかもしれないが、一万円台で買えるゲーム機でなにが変わるというものでもないのだが、洗濯機とウォシュレットが遂に完全に壊れたので家族と家電店に行ったさなか、その作戦は遂行されたのだった。 最近の家電店というのはとても危険だ。家電店にはカメラもゲーム機も、プラモデルや塗料も場所によっては揃っているし、ゲームソフトも揃っている。カメラに関してはカメキタさんオンリーなので心配ないのだが、店内を洗濯機のコーナーに向かう途中に任天堂のコーナーが僕に語りかけてきた。

ものすごい言い訳になったが任天堂Switch lightである。先日もゲームネタの日記を書いた気がするのだが、こう見えてかなりのゲーマーなのである。ここ十年くらいは写真とモデラー仕事が忙しくてが出せていないことが多い。しかし、任天堂Switch liteは完全にケータイ型ゲーム機なので、基本アウトドアで使うアイテムとなる。だから、これが原因で引きこもったりすることもなく、むしろ仕事で疲弊した頭脳を毎日完全にリセットするのにとても役立つことになりそうだ。

小学生ではないが、毎日のプレイ時間は一時間以内でも多すぎるくらいだろう。ふと、自分にかえりたいな、そんな時、電源を入れてリンクに逢いに行くのがきっとただしい使いかただろう。

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「レンズは語る」

「うちは外国の方がよく来られるので、お名前をお伺いしているんですよ」

顔立ちの整った綺麗なお姉さんはそういうと、手慣れた手つきでメニューを作り上げた。おととい発売になったばかりという新メニューを頼んでいた。普段は昭和レトロな雰囲気や、古民家的カフェが好きな僕が珍しくスターバックスコーヒーに来たのは、これが写真教室の個人レッスンだったからだった。

お芋が原料というそのメニューは、これまで飲んだことのあるどんな飲み物よりも「美味しいな」と感じた。甘い。とてつもなく甘い。普段の感覚の三十倍は甘い気がする。とはいえ、今日はたくさん動いて脳も使ったからよしとしよう。そして僕は、透明なストローをドーム型のキャップの肩にすこしだけ預けた。

写真撮っている。人はなぜ、写真を撮りたくなるのだろうか。三万年前の洞窟の奥深くに描かれた壁画たち。三万年後の未来の人に発見されていない作品がきっと、世界には無数にあるだろう。僕らの残した写真は、ちゃんと未来に届けられるだろうか。

来月の誕生日の翌日に、富士フイルムからX-Pro3というデジタルカメラが正式に発表になるという。前情報を整理してみると、これまでのデジタルカメラの概念から結構逆向している部分がありとても興味深い。本来のカメラ、写真とどう向き合うか、というポイントにメスがいれられた感じがする。大きなポイントは「撮った後で液晶画面ですぐに確認ができない」ということ。すぐに、というのがポイントだ。確認できないわけではない。確認するのにワンテンポ必要になるため、きっとあの構造なら確認したくなくなるはずだ。本来液晶画面がある部分は真っ黒いパネルでカバーされている。底面の左右に回転中心を与えられたそのパネルは手前に120度くらい開くようだ。そこを開くことでやっと、撮った絵を見られるらしい。

富士フイルムのカメラは、いまは電子ビューファインダーの中でも確認ができるから、本来背面液晶で確認する必要は、個人使用である限りは、基本的には無い。ただし、120度開いた状態でレンズ面を下向きにテーブルに置けば、まるでBlu-rayプレーヤーのような画面配置で撮った写真を見ていくことはできる感じ。

これには驚いた。撮った写真を「見せない」のは、撮影に集中しなさいというメーカーからの啓示と思える。撮影の度にカメラを顔から離して背面液晶で確認していくのは、たぶん仕事で撮っている時以外には必要のない動作な気がしている。それよりも、目の前で刻々と変化していく情景の方に自分の瞳をフォーカスしていきたい。そんなことを、改めてカメラから教えられるような、そんなカメラが発売となる。賛否両論かもしれないのだけれど、こんなものを量産商品として発売しようとしている富士フイルムが好きだ。仕事ではニコンを使う僕だけれど、お休みの日に散歩に持ち出すカメラは富士フイルムであることがほとんどだ。

人はなぜ、写真を撮り続けるのだろうか。

世界にはきっと、もっとたくさんの答えがあるに違いない。

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「いつかきた路」

世の中の速度は少し僕には速すぎて、一杯一杯になることがある。11年前に初めてiPhoneを手に入れたとき、電車の中で画面を見るのが恥ずかしいくらい殆どの人が持っていなかった。

今はどうだろうか。スマートフォンiPhone以外にもたくさん発売され、スマートフォンの画面を凝視していない人を見つけるのは、その人が静止していようが歩いていようが見つけるのは難しくなってしまった。

情報端末機はとても便利で世の中の流れ、速度、在り方までを替えようとしている。

電話をポケットの中に持ち歩けるようになったときでもかなり驚いたけれど、これからの世の中はどこまで加速していくのだろうか。

オートバイに乗っていると特によくわかるのだけれど、「人には人それぞれの心地よい速度がある」ということ。目の前の信号が赤になっているのに煽ってくる四輪車も多い。彼らは一体、何処に行きたいのだろうか。

天空の城ラピュタ」では、進化しすぎた世界がいつか必ず崩壊することを示唆するメッセージをくれた。もちろん便利なものを拒否する意味ではない。むしろどんどん活用したい。しかし、度がすぎるのは本気でヤバイなと思う今日この頃。電車に乗る流のをホームで待っていて目の前の待ち人がスマートフォンを凝視されている。電車のドアーが開く。スマートフォンを凝視されながら、器用な足取りでゆっくりと、電車に乗り込まれて行かれることは毎日散見される光景。そもそも危険なのではないか。

必要以上な情報は、人の眼を惑わしてしまうこともあることを心に刻みたい。だからたまには、大きなオートバイに乗って、いつもの道をゆっくりと流していける余裕が欲しい。世界の速度が自分にとって、どのくらいの誤差で流れていくのかを体感することができる気がする。

カホーンの自作が終わったら、バイクに積んで出かけて、北のほうの山あいの河原で一人、静かに演奏してみたいと思う。そんな余裕も、人生の一ページには必要なのかもしれない。 f:id:LAPIN1791:20190920071634j:plain

「宇宙の翼」

あの薄紫の宇宙の向こうに、必ず理想の場所があるはず。いまは気流に乱されて瞑想することもあるかもしれないのだけれど、ゴールをできるだけリアルにイメージし続ける、していられることが何よりも大事な気がする。

自分では気がついていないかもしれないけれど、なんとなく生きてきたシーンは多かった気がする。とあることがきっかけで、それに気づくことができた。その時は確かにシンドイことだったとしても、生きていく上で無駄なことなんて一つだって起こってはいないのだから。

f:id:LAPIN1791:20190830070700j:plainだから、広角レンズで広めの視野を持ち、方向性が定まってきたならば、今度は望遠レンズに付け替えて、より具体的にゴールを確かめてみたい。そこで大丈夫って思えたならば、あとはスロットルを自信を持って開いていこう。

今日という日は、今日だけのものなのだから、今日できることは、しっかりとやっていきたい。明日は明日の、航路がまっているのだから。

今日も世界が、美しい光に包まれますように。

「四十年前の」

「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが」ある日の朝のこと、僕はそのおじさん(自分もおじさんだが)に話しかけた。ここに四十年ぶりに来たのにはワケがあった。海。海という場所は、僕の小さな頃からの原生の記憶であり、崇高な存在なのだった。

そこはとある漁港で、巨大な市場が併設されていた。当時は「西部開発団地」ともばれており、友人たちの間では「西部開発に釣りに行こうや」というのが恒例のセリフだった。いまは「広島市商工センター」なんて呼ばれているのだけれど、ボクラの記憶の奥深くでは、いまでも西部開発というほうがしっくりとくる。

当時はまだ、舗装路さえない荒野の広っぱだった。サンドイエローの道が延々も続く。僕らは愛車(自転車号)にまたがり、クーラーボックスと釣竿、買ったばかりの朝鮮ゴカイ(青虫)を詰めた新聞紙に包まれた包みを大切に持って西部開発に行ったものだった。

社会人になってからというもの、釣りはダム湖のバス一本になってしまった。なぜ海を捨てたのかは深い深い理由があったのだけれど、その当時の僕は「もう海なんて行かないだろうな」も、根拠もそんなに強くない変な自信に包まれていた。あれから三十年。やっとまた、海に行く日が来たのだ。

それはセンセーショナルな出来事だった。行きつけのスズキの仲良しのディーラーの課長さんが最近「タコのルアー釣り」にハマっているらしい。偶然僕も、「タコって面白そう」と思っていた矢先だったので、渡りに船とはこの事、実際に海に出かけるまでの時間はそう長くはなかったのだった。

課長さんに大体聞いては来たものの、三十年前とはだいぶ様子が異なっていた。釣り禁止の場所も多い。下手をしたら駐禁切られて叱られる可能性もある。草津港の傍にワゴンRを停めた。近くに釣り人が見えたからだ。とりあえず降りて岸壁に向かってみる。おじさんは6ftくらいのスピニングロッドを海中に入れて上下させていた。

「あのう、ちょっとお尋ねしたいんですが」

こんなとき、コミュニケーション能力を最大限に発揮できるのは十年前に習ったNLPのお陰だと思えるし、加えて温厚な性格が相手に威圧感など微塵も感じさせないメリットも役に立つ。

なんと、聞けばそのおじさんも「タコエギ」と呼ばれるタコ釣り用のルアーをスピニングロッドの先に結んでいるではないか。

少しの間、駐車スペースや、釣り禁止の場所、などを親切に教えていただいた。なんともアットホームな感じ。ダム湖ではあまり人には出会わないので新鮮な気持ちだ。同じ趣味の人であれば、途端に仲良しになれる感じがするのはこんな時によく感じるものだ。

そんなに時間もなかったが、これから1時間弱、ここを攻めてみることにした。おじさんは早朝からやっていたらしく「わしゃもう帰るでな」と言って、僕と同じワゴンRに乗って帰って行ってしまった。

結論から言うと、その1時間弱の間にバイト(ターゲットからの反応)はなかったのだが、自作したタコ用ルアーの操作性がすこぶる良好で、彼らを釣り上げるのに、もうそんなに時間は必要ではないと実感することになった(自画自讃)。

帰宅したら加地工房の仕事だ。模型製作、動画編集、写真現像と、休む間もないが、全ては「好きなこと」なので全く苦にはならない。このために、「産まれてきた」と自信を持って言える今日の自分なので、ある。f:id:LAPIN1791:20190814143528p:plain